Wikileaks

ウィキリークスが最近さらに頑張っているようで、メディアを賑わしています。今週のニュースでは、ウィキリークス創始者であるジュリアン・アサンジ氏がなぜか性犯罪の疑いで国際警察に手配されたとのことです。この性犯罪というのはどうもとってつけたようで怪しい感じがします。

情報公開というのは原則として望ましいことです。機密扱いしている情報の大部分が、実は機密扱いしなくてもいいものだったりすることが多いのは、小さい組織も大きい組織も同じなようです。何らかの組織が出来上がると、なんでも機密にしたがるものです。でも二人以上の秘密はもう秘密ではないので、絶えずその秘密が漏れることを心配しながら、それを防ごうとさらに無駄なエネルギーが使われます。ウィキリークスから出てくる情報の大部分は、知ってしまえば「だから何なんだ。」というようなものだと思います。さらに、言わずと知れた内容や、すでに暗黙の了解となっているような内容も多いです。どんどん情報が垂れ流されると、隠していたことの意味が薄れてきたりするかもしれません。そういう意味では、よい影響があるかもしれません。

ウィキリークスはダニエル・エルズバーグ氏によるベトナム戦争時代のペンタゴン資料流出事件とよく比較されます。エルズバーグ氏は、最近のインタビューウィキリークスについて聞かれた時に、基本的に賛成という立場をとっていました。ただ、エルズバーグとウィキリークスには大きな違いがあるように思います。エルズバーグは自分が諜報機関で働いていた時、結果的に事実を勝手に作り上げて戦争を正当化することに力を貸していたことに気づき、さらに中枢に近いところから当事者を観察する内に、歪んだ組織の内実に疑問を抱き、自分と家族の身の危険を覚悟して情報を流出しました。そして、流出した情報の内容や重要性は、(自分が仕事で関わってきたことですから当然のこと)すべて理解していました。一緒に活動した彼の同僚もその意思に賛同して強い動機を持った上で情報を流出しました。そこには、自分のせいで無駄に人が死んだり殺されたりしたという悔恨があり、手遅れでも何とか行動しなければならないという強い意志がありました。そして、エルズバーグが情報流出の当事者だと明らかになった際に、彼は堂々とその意図を述べました。情報流出に協力した新聞社の編集長は実名で責任を持って情報を公表しました。

ウィキリークスでの情報流出では、このような強い個人の意思を感じることはできません。アサンジ氏は情報提供の場を提供していて、それはそれで大変な労力なのですが、インタビューなどを通して見るアサンジ氏には、あまり明確な目的がないように見えます。アサンジ氏はもっと漠然としたアイデア、たとえば「反権力」のようなものに基づいて本能的に活動しているように思えるのです。極端な例えをすると、学校で校長先生のパソコンをハッキングしてその中身をみんなに見せて反組織・反権力を謳うというようなものです。その校長先生がどういう意図を持っているか、それが皆の利益か不利益かどうでもよいことかなどには関係なくです。われわれの大部分は、校長が昨日何を食べたかとか、どんな女の人が好みなのかとか、どうでもよいことばかりに気を取られてしまうに違いありません。

というように、私には、どうもこの二者の活動の動機は違っていて、比較するのは適当でないように思えます。アサンジ氏本人がなぜか謎の人物チックなのもよく分からないところです。

ウィキリークスではウィキぺディアのように、投稿された情報が本当かどうかなどのコメントを参加者が付けることができるなど、自浄作用が期待されるつくりになっているようです。しかし、ウィキペディアの情報の半分かそれ以上は嘘または偏りで、エントリーによっては膨大な情報がその価値に関係なく羅列されてなんだかわからないことになっているという現状を踏まえると、こういうシステムが本当にうまく作用するのかと疑問を感じたりもします。たくさんある情報を組み立てて事実をあぶりだすために、ジャーナリストにもっと頑張ってほしいところです。

ともあれ、アサンジ氏があったかどうかわからない変な罪状で手配されていて、それについて直球で鋭く突っ込む報道がない(あるいは本当に少ない)のは残念なことです。

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