ご飯とみそ汁と焼き魚

アメリカで4度目の年越しになりました。さきほどインターネットを暇つぶしサーフィンしていたところ、ある衝撃的な経験をしました。それは、「雑煮」という言葉を目にした時でした。「雑煮?、あ...」と絶句したのは、雑煮の存在をすっかり忘れていた自分に驚いたからです。

実は私、おもちが好きなので、雑煮が好きなのです。おせち料理はあまり好きではありませんが、正月といえば雑煮で、日本に居た頃は楽しみにしていたものです。そんな自分が雑煮の存在をすっかり忘れていることに気づいて驚いてしまったというわけです。

アメリカに来て最初の年は、なんとか入手した餅と、車で二時間ぐらいのところにある日本食スーパーで入手した永谷園のお吸い物で、即席雑煮を作ったりもしました。次の年はどうだったかな。餅が入手できなかったような記憶があります。今年(2009)の正月はあまり覚えていません。なんとなく重要な気がしていた雑煮も、実際のところは自分の生活にあまり深くしみ込んでいたわけではないのかもしれません。

話は変わりますが、初対面のアメリカ人に意外とよく聞かれるのが、家でどんなものを料理するのかとか、どんな料理が日本の料理かとか、どんな料理が懐かしいかなど、食べ物に関することです。こういう質問は、簡単なようだけれども、答えるのが難しかったりします。

私は料理はまともにするほうです。何でも作ります。でも日本の家庭料理って言われるとなんと答えて良いか分かりません。よくあるおふくろの味的なものには、肉じゃが、筑前煮、五目煮、魚の煮付けとかがあろうかと思いますが、こういう料理を毎日食べる訳ではありません。私の親の世代の母親達は、毎日違う食べ物を作ることに専念していました。今日の料理や三分間クッキングなどは、毎日違うメニューを効率的に作る手法を提供し続けています。

月曜日が煮物なら、火曜日は酢豚、水曜日はカレーライス、木曜日は魚、金曜日はコロッケなどなど。その労力には頭が下がります。和風、中華、洋風、何でもありです。そういう食事で育った私たちの世代もまた、毎日違うものを食べないといけないかなぁと漠然と感じている人が多いように思います。いろいろな国の人と話していると、この日本の母の(あるいは父の)料理の仕方は特殊なのかもしれないと感じます。

他の国の人々だって毎日同じものを食べることが好きだというわけではありませんが、今日はイタリアン、明日は中華、というような大陸をまたぐようなバラエティーを日常的に料理しているというのはあまり聞きません。少し違うテイストの料理はたまに楽しみで作るというような感じかも知れません。

そういうわけで、私はこの手の質問は答えるに四苦八苦します。もちろん日本人でもいろいろと違いがありますが、私と同じような感覚の人は多いんじゃないかなと思います。で、なんと答えるかというと、「おいしいものなら何でも作りますよ...特にアジアンとは限らずにね。」ってな感じです。大抵の人は、分かったような分からないような、少しがっかりしたような表情をします。時間があるときや、相手が興味を持った時には、上で述べたようなことを正直に話しますが、日本に行ったことがない人の場合はなかなか想像するのが難しいようです。

先週、日本人(たぶんアジア人)と話したことがないアメリカ人に聞かれたのは、「どんな日本の料理を食べた時にふるさとを感じたりほっとしたりするか」というようなことでしたが、そのときに答えたのは、「ごはんとみそ汁と焼き魚」で、即答でした。「わお、あなたを幸せにするのは簡単だね!」とびっくりしたようでしたが、どっこい、皆さんご存知の通り、「おいしいご飯、おいしいみそ汁、新鮮な魚を焼いたもの」、これが一番難しいんですよね。そういうものを久しく食べていない今なら、そんなに丁寧に料理されてなくても幸せを感じると思いますが。